로그인【清晴堂、来客数回復の兆し 春の導線、職人映像がSNSで拡散中】 季節が、いつの間にか冬から春へ移っていた。 記事を閉じても、薄桜色の売り場写真が胸の奥にざわめきを残す。(……春、動き始めたんだ) 動画を開いた瞬間、心臓がかすかに跳ねた。 桜色の包み、並び順、光の当て方──(……これ、私が提案した「季節の骨格」がそのまま使われてる) けれど次の瞬間、指が止まる。(でも……あれ? ここは私の案と違う) 春菓子の背に、小さな余白の棚。 光の角度で桜影がふっと浮く。(こんなの……思いつかなかった)(……さすが、鬼塚さんだ) ページを閉じても、その棚だけが目に焼きついた。(……少しだけ。ほんの少しだけ、本物を見にいきたい) 本当に、ただそれだけのつもりだった。 でも、会社の出口を出たときには、 足が自然と清晴堂の方向へ向かっていた。(見つからないように。 ただ……企画の現場を見たいだけ)*** 翌朝。 春の空気はまだ冷たくて、 それが逆に胸を落ち着かせた。(……見に行くだけ。入らないから) 自分に言い訳しながら、 私は人の少ない開店すぐの時間に清晴堂へ向かった。 正面入口には近づかない。 観光客が流れ込む前に、建物脇へそっと回り込む。 ガラス越しに見える春の売り場。 桜色の包み、光の落ち方、職人の手元の動画モニター。(……映像で見るより、ずっと綺麗) 胸がひりつく。 自分の企画の骨格がそこにあるのに、 自分だけがこの場所の外側にいる。(……入れない。炎上したの、私なんだから) ガラスに手を触れるのも怖くて、 ただ少し離れた場所から見守るように立っていた。 そのとき──「……朱音?」 背後から、慎重に落とされた声。 振り返ると、 晴紀が買い出しの箱を抱えたまま、目を見開いていた。「なんで……外に?」「見に来ただけよ。外から……また炎上すると困るから」 そう言うと、晴紀の肩がかすかに沈んだ。「そうか」 しばらく黙っていた晴紀は、 ガラス越しの売り場を一緒に見るように立った。「朱音の企画……すごく良かったよ。新しいお客さんがたくさん来てくれてる」「……そう」「元は朱音の案だ。本当に、ありがとう」 その言葉が胸に刺さった。 そんなこと、言われたくなかったのに。 その瞬間─
玄関のドアが静かに閉まる。 外の冷たい空気が断たれ、部屋の温度が急に近くなる。 Dはコートを脱ぎながら、 部屋の中をひとつひとつ確かめるように見渡した。 そして、私の方へ向き直る。「朱音。ひとつだけ、確認したいことがあるの」 いつもの柔らかい声。 なのに、逃げ場がないくらい真っ直ぐだった。「あなたが——復讐をやめると決めたのなら」 そこで一歩近づく。 息が触れる距離。「……私と、一緒に生きてみない?」 告白より静かで、 求婚より甘くて、 選択より重い言葉だった。(……Dと、生きる?) 一瞬だけ、胸がふっと軽くなる。 気づきたくなかった感情が、静かに顔を出した。(でも——)(彼と一緒にいる私は……いつも心地いい)(もし、ずっと隣で過ごせるなら……) その想像が、 ひどく甘くて、 同時に、なぜか胸の奥を少し刺した。「復讐を手放すあなたの未来に、 私が必要だと思うの。 あなたの力になれるのは、きっと私よ」 そう言うDの目は 本気で、迷いがなくて、 私の人生そのものをまっすぐ掴みに来ていた。(……そんなの、反則でしょ) 胸が、ひどく熱くなる。 Dが一歩近づいた。 その瞬間、廊下の蛍光灯がわずかに揺れ、 白い光が彼の横顔のラインだけを切り取った。 頬の骨格の鋭さ、喉仏の影、長い睫毛の落とす影がゆっくりと揺れる。 ──美しいという言葉では足りなかった。「朱音。 ねぇ……こっちを見て?」 その声に、喉がひくりと鳴った。 殺気みたいに鋭いのに、 触れられたら壊される気がして—— でも、離れたら二度と戻れないような気もした。(だめ……今、これ以上近づいたら) ほんの一瞬、後ろへ体が引きかける。 でも、Dは追わない。 ただ待つ。 私のためらいごと受け止めるみたいに。「怖い?」 甘さと静けさが混じった声。 私は答えられなかった。 怖い—— でも、それ以上に惹かれてしまっている自分が、もっと怖かった。 Dの手がゆっくりと伸び、 けれど触れる直前でまた止まる。 その距離が、逆に私の胸を締めつけた。「……逃げたいなら、逃がしてあげるわよ」 優しい言葉なのに、 なぜか足が動かない。 呼吸すらできない。(……逃げたくない) 自分でも驚くほど静かに、 その想いだけが胸の奥に
ビル裏の搬入口脇、蛍光灯がぼんやりと白い影を落としている。「……なんで、あんなこと言ったの?」 自分でも、少し甘えるみたいな声になってしまったのがわかった。 Dは私の方へ身体を寄せ、 指先でそっと手を包むように触れた。「はっきり言った方がいいと思ったの。 あなたにとっても、晴紀さんにとっても……ね」 そこまでは、理性のDの声だった。 けれど、その次の言葉だけは違った。「でも、それだけじゃないのよ」 低く、落とすみたいな甘さ。 耳の奥にゆっくり溶けていく。「言いたかったの。 あなたは——彼のものじゃないって」(……そんな言い方、ずるい) 胸がひどく熱くなる。 Dは私の手をそっと持ち上げ、 親指でゆっくり撫でながら微笑んだ。「ねぇ、朱音。 誰かに、あなたの価値を決めさせてはだめよ。 あなたは……あなたが思ってるより、ずっと愛される人なんだから」(……愛される?) 耳の奥がじんと熱い。 Dは身体を少し傾け、 囁くように続けた。「あなたを手放したい人なんて、 本当はどこにもいないわ」(なんで……そんな甘いこと言うの) 呼吸がひとつ、浅くなる。 Dは私の頬に触れはしない。 触れないのに、触れられたみたいに体温が上がる距離で。「……今日は休みなさい。 揺れるなら、それはあなたの自由。 でも——あなたを縛る権利なんて、誰にもないわ」 手を包み込む指先が、ゆっくり絡んでくる。「あなたが誰の隣に立つのか…… 私は、静かに待つだけよ。 でもね、朱音——」 Dはそのまま、私の髪へそっと触れない距離で指を滑らせた。「あなたが望むより先に、 迎えに行くつもりではあるけれど」(そんな言い方……反則) ひどく甘くて、 逃げ場がない。*** 数日が過ぎた。 会社では相変わらず会議に呼ばれず、自分の席だけぽっかり空気が止まっているみたいだった。 資料をまとめても、誰にも渡す場がなくて、コーヒーを飲んでも、味がしなかった。(……あれから、Dも晴紀も、何も言ってこない) 静かすぎる数日。 それなのに心だけは落ち着かず、ふいにあの夜の言葉が胸をなぞる。(私、どうしたいんだろう) 問いの答えが見つからないまま、パソコンを閉じた。
炎上は初動の速さで、二日で沈静化した——リュエールだけじゃない。鬼塚の炬コンサルティング、神園家、清晴堂、ありえない速度で一斉に動いた。 ただ一人、中心にいた私だけが何もできなかった。 会議は外され、仕事は他人へ。周囲だけが忙しく流れ、私の席の周りだけ、時間が止まっていた。(……自分の責任だから、仕方ない) そう思いながらエントランスを出た瞬間、腕をつかまれた。「……朱音」 顔を上げた瞬間、呼吸が止まる。 ——晴紀。 雨上がりの夜気が冷たいのに、 彼の指先だけが熱を持っていた。「話がしたい」「……何しに来たの? あなたがここに来たら、また騒ぎになるの。 ——帰って」 語尾を強くして、はっきり言った。 昔なら絶対に言えなかった言葉。 晴紀は一瞬だけ目を伏せた。「……そうか。ごめん」 そのすぐ謝る癖が、胸の奥をかすかに刺した。 昔は、その素直さが好きだった。 でも今は——自分の脆さを見せられているみたいで、苛立つ。「……ここはまずい。少しだけでいい。 人目につかないところで話させてくれないか」 その声があまりに低くて、 謝っているのに追い詰められているみたいで、 断り切れなかった。 私は短くため息をつき、うなずいた。「……裏の搬入口なら、誰も来ない」 二人で歩く。 夜の湿った空気。 コンクリートの匂い。 足音だけが響く。 人目のない搬入口に着いた瞬間、 晴紀がゆっくりと私の前に立った。「……悪かった。本当に……言い訳のしようがない」 肩の線が落ちている。 強がりも見栄もなく、 ただ真摯だった。「……あの騒ぎは俺のせいだ。 巻き込んだのは、全部俺の責任だ」 視線が揺れていた。 言い訳しないで謝る——彼の悪い癖。 それがまた、痛かった。(これまで積み上げてきたものが、全部崩れた)(それは……私のせいでもあるけれど)(でも——こんなふうに簡単に謝って、許せると思わないで) 胸の奥に、静かな怒りが広がる。 なのに。(七年前のあの時は……謝らなかったのに。 私たちの記念日の夜、別の女と過ごしたのに。 別れの一言もなく、私の世界から消えて別の女と結婚したのに。 式場で、花嫁に嘲笑われた私を、あなたはただ見て見ぬふりをしたのに……) その事実が、ひどく胸を揺らした。 揺れたく
タクシーを降り、自宅の鍵を開けた。 玄関の灯りがついた瞬間、ようやく息が戻った気がしたのに──休むという発想は一度も浮かばなかった。(まず……さっき渡した草稿を、もう少し練るだけでも) ノートPCを開き、指をキーボードへ置く。 ──けれど、今日上司に渡してきた公式の文言以上のものは、 もう、何も書けないと分かっていた。 火を広げないための最低限の措置は、 迅速に、そして誠意をもって行う。 マーケでも広報でも、それは常識だ。 私もずっと、その側にいた。 だからこそ分かってしまう。(表に出る人間の一挙手一投足が、どれだけ火種になるか) カーソルが、画面の上で瞬いたまま止まる。 次の一文字が、どうしても浮かばない。 その空白だけが、異様に目についた。(……まさか、自分がその表側になる日が来るなんて) 胸がきゅ、と痛む。 炎上の仕組みを何度も見てきた。 火がつく瞬間も、燃え広がる導線も、沈静化のセオリーも、全部知っている。 だからこそ──理解できてしまう。(今ここで、私が何かを言えば……完全に燃え上がる) 文字を打つ前に、責任の重さが落ちてくる。 鴨川の夜。 あの瞬間切り取られた一枚。 社内のざわめき。 いずみの声。 晴紀の顔色。 全部、繋がってしまう。(私はもう、炎上のアイコンなんだ) その事実だけで、指先の温度がすっと消えた。 スマホが震えた。 画面を見なくても分かる。Dだ。《家着いた?》《何かあったらすぐ言って》《一人で背負わないで》 優しい言葉は、今の私には受け取れない刃だった。(……ごめん、D) 画面を裏返し、未読のまま置いた。 本当は、Dにすがりたかった。 声を聞くだけで泣けるほど、疲れていた。 でも──私はあの夜、Dを裏切った。 たとえ未遂でも、その事実だけが胸に刺さっている。 それに、Dは逃げ場じゃない。 ずっと肩を並べて戦ってきた人だ。 ここで甘えてしまったら、 私はもう二度と自分の足で立てなくなる気がした。 だから、優しさにすがる気にはなれなかった。 逃げたくないのに、優しさを受け取れば、崩れる。 その確信だけがあった。 机の端に置いてあった社員証が目に入った。 朝つけて出たときと同じ形。 でも今は、まるで別の誰かのものに見えた。(私が、ここにいる
役員会議室を出てから、どう廊下を歩いたのか── ほとんど覚えていなかった。 気づいた時には、エレベーターの前で立ち尽くしていた。 そこへ急ぎ足のDが追いついてくる。「朱音……大丈夫?」 私は少しだけ顔をそらした。「平気。歩ける」 そう言いながらも、腕が震えているのを自分で分かっていた。 エレベーターが閉まり、二人きりになる。 Dは一瞬ためらい、しかし真正面から訊いた。「……あれ、本当なの?」 ゆっくり息を吸った。「……キスはしてない。不倫でもない。 写真のあれは、ただ……一瞬、近かっただけ」「なら、ちゃんと説明すれば──」「でも」 その一言で、Dの言葉が止まる。 私は、自分の指を強く握りしめた。「……もし、あの時あなたから電話が来なかったら…… きっと私は、止まれなかった」 Dの表情が揺れた。「朱音、それは──」「分かってる。 実際には何も起きてない。でも…… 起きてもおかしくなかった自分がいたの」 声は震えていないのに、胸の奥だけがきしむ。「その自分が……一番、許せない」 Dはかすかに息を呑んだ。「誰も責めてないわ」「分かってる。でも……私は責めてる」 ほんの一瞬の沈黙。 Dは、私の顔を見つめた。「……それで戦えないの?」 言葉の代わりに小さく頷く。「あなたが戦う気があれば、私は助けられる」 その言葉に、少し揺れる。 それでも、小さく首を振った。「そう……」 Dが諦めたようにため息をついた。 エレベーターが一階に着く。 扉が開いても、二人はしばらく動けなかった。「ありがとう、来てくれて。でも……今日は一人でいい」 Dは何かを言いかけて、結局その言葉を喉の奥で飲み込んだ。 その沈黙に、私はただ小さく会釈するしかなかった。 それから一人でタクシーを止め、会社へ戻った。*** タクシーが止まり、私はそのまま会社のロビーへ足を運んだ。 自動扉の向こうの空気は、ひと目で分かるほど冷たかった。(……ああ、前とは違う空気だ) エレベーターを上がり、企画部のフロアに足を踏み入れた瞬間、すれ違った二人の女性社員が、声量を落とすでもなく会話を続けた。「……で、部長が不倫相手なんでしょ?」「昨日の写真、回ってきたよ。あれガチじゃない?」「天野様とも仲良かったのに……そういう仕事で